2011年12月1日木曜日

太平洋戦争開戦日にちなんで

治維法国賠同盟府本部の「不屈」に投稿しているものです。


  太平洋戦争開戦七〇周年を考える
 今年の十二月八日は太平洋戦争開戦七〇周年の日に当たりました。一九四一年のこの日は「ニイタカヤマノボレ一二〇八」との暗号で指令、「トラ・トラ・トラ」、つまり「ワレ奇襲ニ成功セリ」と返電された真珠湾への奇襲攻撃、米英への宣戦布告の日だったのです。しかし「赫々たる戦果」をあげ得たのはホンの緒戦にすぎず、沖縄の悲劇をはじめ、ヒロシマ・ナガサキ、敗戦へと悲惨な道を転がり落ちたことは今さら語るまでもありません。
 ところで、この戦争と第二次世界大戦との関係はどうなっているのでしょう。一般に第二次世界大戦は一九三九年九月一日ドイツ軍がポーランドへ侵攻したことが始まりとされています。米英両国などは日本が「参戦」したこの方面を「第二次世界大戦太平洋戦線」と呼んでいたと伝えられます。ヨーロッパには東部戦線と西部戦線があり、北アフリカ戦線もありました。
日本はこの「第二次世界大戦」参戦以前から三一年九月十八日の柳条湖事件に端を発した満州事変、三七年七月七日の盧溝橋事件に端を発した支那事変など、中国への侵略戦争を展開していました。これら一連の戦争を「今次の対米英戦争及び今後…生起することあるべき戦争は支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す」と決めたのは四一年十二月十日の大本営政府連絡会議でした。
こう見てくると、同盟府本部で来年一月から学習する「日本近現代史を読む」(新日本出版社刊)がこの戦争を「日中戦争とアジア・太平洋戦争」と位置づけていることの的確さが浮き彫りになります。
 今このアジア・太平洋地域が新たな脚光を浴び、きな臭い臭いを漂わせ始めています。南米や中東からも足場を失いつつあるアメリカ、オバマ大統領が「米国はアジア・太平洋国家である」と強調し、十一月七日オーストラリアの議会で「日本と朝鮮半島、アジア太平洋地域でのプレゼンスと作戦を最重点とするよう指示した」と軍事的関与の強化をあからさまにする演説をしたからです。

大阪市長・知事選挙の結果について

治維法国賠同盟中央本部「不屈」編集部の求めに応じて急きょ書いたものです。


  大阪市長・知事選挙
    貴重な経験、「反独裁」の一点での共同
 十一月二七日、全国から注目された大阪の市長・知事選挙の投開票が行われました。結果は平松邦夫市長候補の健闘、梅田章二知事候補の惜敗となり、勝利できませんでした。残念の極みではありますが、貴重な経験と教訓に満ちた闘いであったことは疑う余地がありません。
 選挙戦では橋下徹市長候補(大阪維新の会代表)のかかげる独裁三点セット=大阪都構想、教育基本条例、職員基本条例をめぐって「ハシズム・独裁を許すか、民主主義を守る一点での共同を広げるか」が厳しく問われました。
 治維法犠牲者国賠同盟大阪府本部は九月三日、いち早く「憲法と地方自治法、教育の条理を蹂躙する『教育基本条例案』、『職員基本条例案』の企てに反対し、ただちに撤回を求めます」との理事会決議をあげ、「政治に必要なのは独裁者」と豪語する橋下氏を糾弾。大阪市をよくする会、明るい民主府政をつくる会に結集し、その一員として奮闘してきました。
 市長選挙告示を一週間後に控えた一一月五日「よくする会」と市長候補わたし考一氏は「独裁を許さない」立場から出馬を取りやめ、平松氏を「自主的に支援する」として「反独裁」の一点での共同を呼びかけました。市民・民主団体も当初にあったためらいを急速に克服し、府民的共同への道を開くため懸命に奮闘。投票前日には、「よくする会」独自に元内閣官房長官野中広務氏の訴えを載せた平松陣営の機関紙「元気ネット大阪」を百万部作成・活用し、文字通り大阪一丸、近畿一丸の取り組みとなりました。
 選挙戦は一段落しましたが「独裁三点セット」をめぐる攻防はこれからが本番です。新知事になった松井一郎氏は得票で過半数にいたらず、新市長の橋下氏も市議会与党は過半数を割っています。短期間に広がった「反独裁」の一点での府民的共同の本格的構築へ、さらなる挑戦は続きます。
 二〇一一・一一・二八